MMT
MMTの勉強、第3回目です。
MMTの勉強、第1回目の記事で、「MMTは、「お金」という概念を根本から認識し直さなければならなくなる理論」と表現しました。
今回は、「お金」をどう認識し直さなければならないのか、「お金」とは何なのか、「お金」の正体について説明していきます。
ぼくらはそもそも、「お金」というものをまったく理解できていなかったのです。
それは、国のリーダーにも、一般的に「お金」のスペシャリストであると思われている経済学者にも同じことが言えます。
貨幣社会は、間違いなく人類が生み出した仕組みではありますが、整合性のとれた理論と矛盾のない運用方法が整備された状態で「よーい、ドン!」という具合にはじまったものではなく、人類の歴史の中で段々と、時間をかけて形成されてきたものなので、誰一人として「これが正しい」という答えを知らないのです。
知らないながらも、みんなが何となく、もしくは試行錯誤しながら利用している仕組みだということです。
現時点でぼくは、MMTが100%正しいと言い切れる証拠を持っていません。
ただ、「お金」の起源、現代の「お金」の発生・消滅の流れ、現在までの貨幣社会の推移などを学んだ上で自分なりに綜合した結果、MMTは「事実」を説明していると強く感じます。
「お金」に対する認識、先入観を一度捨て去って、「お金」という概念を再定義してみましょう!
人類最古の「お金」は、メソポタミア文明の楔形文字が刻まれた粘土板であると言われています。
この粘土板にはどういった内容が刻まれていたかというと、「Aが、Bから、小麦〇〇を借りた」という貸し借りの記録です。
「ん?その粘土板はお金(貨幣)じゃなくて、ただの借用証書じゃないの?」と思った人は多いと思います。
しかし、これこそが「お金」なんです。
例えば、
という例で考えてみましょう。
Cさんは、秋になったらAさんに木片を提示すればお米を受け取れるでしょうし、Bさんと同様に、その木片を使ってお米以外のものを手に入れられるかもしれません。
また、Aさんが色々な人に同様の木片を発行していた場合、いたるところでBさんとCさんのようなやり取りが発生しているかもしれません。
さらに、これが江戸時代で、年貢の内容が「お米を納める」だったとしたら、この木片が年貢を納める手段にもなり得ます。
いかがでしょうか。
メソポタミア文明で使われはじめた粘土板も、十分に「お金」足りえることがおわかりいただけたと思います。
その昔、お金とは「金銀財宝」のことを意味していました(意味していると考えられていました)。
古典派経済学に影響を与えたイギリスの政治哲学者ジョン・ロックも、お金(貨幣)を下記のように表現しています。
つまり、「お金=富、国力」という等式で認識されていたのです。
いわゆる「重商主義」というものです。
『国富論』で有名な哲学者・経済学者であるアダム・スミスは、この重商主義を否定し、「富はすべての生活の必需品と便益品のことであり、お金は資本(富)の一部であることに間違いはないが、生産物の交換を活発にするために機能する商業用具であるにすぎない」と説きました。
つまり、「お金=商業用具」という認識を示し、この思想が、現在まで多くの人がイメージする貨幣観につながっているわけです。
アダム・スミスの思想においても、「お金=商業用具」であり、「お金=額面通りの価値を有する物」でした。
なぜ「貨幣それ自体に価値がある」という考えが広がったのでしょうか。
それはやはり、その昔貨幣として使われていた物が、金や銀という貴金属を材料にした金貨・銀貨だったことが大きな要因でしょう。
金貨・銀貨が使われていた時代、商品を買うという行動を起こす場合、その商品の価値と同等の価値のある貴金属貨幣(金貨・銀貨)を対価として渡していました。
これは一見、貨幣によって経済活動が営まれているようにも見えますが、商品の対価として渡される「貨幣」と呼ばれていたその貴金属は、本来われわれが「お金」として認識すべきものではなく、単なる「価値のある物」であり、つまり、物々交換の域を出ていなかったわけです。
といって別段、この貴金属貨幣で経済活動が正常に機能していれば問題はありません。
しかし、現代の貨幣は、少なくとも貴金属貨幣と同様に認識してよいものではありません。
みなさんご存知のように、紙幣はただの紙切れであり、額面などが印刷されていなければメモ用紙か鼻紙にしかならないものだからです。
要するに、現代の「お金」は、紙幣・硬貨といった「物」であると認識してはいけないのです。
貨幣それ自体に、額面通り(1,000円なり10,000円なり)の価値があるわけではないのです。
少し話がそれますが、重商主義の貨幣社会に生じた歪みについて紹介します。
前述の通り、貴金属貨幣はあくまで物々交換社会における交換の対象物であり、現代と同様の「貨幣」ではなかったわけですが、貴金属が「貨幣」であると信じられて使われていたことで、重商主義の貨幣社会に歪みが生じます。
貴金属貨幣の材料に貴金属ではない金属が意図的に混ぜられて鋳造されたことで、「価値の低い貴金属貨幣」が流通してしまったのです。
理由は想像に難くないと思いますが、貨幣を発行していた時の権力者たちが不当な利益を得ようとしたためです。
つまり、本来10,000円の金貨は10,000円の価値のある金で鋳造されるべきところ、6,000円分の価値しかない金+別の金属で額面10,000円の金貨を鋳造して流通させることで、差し引き4,000円の利益を獲得しようとしたのです。
そして、このようなことが色々な国王や領主の下で起きます。
これが貨幣社会に混乱を巻き起こします。
当時の貨幣社会は、あくまでも貨幣経済を模した物々交換社会であったため、原価6,000円の金貨は結局6,000円の価値でしか評価してもらえません。
そのため、価値はバラバラ、でも見た目が同じなので専門の業者でないと区別がつかない貨幣が400種類以上も市場に出回り、非常にわずらわしい状況になっていたそうです。
貨幣が400種類とは、想像を絶しますね。。。
金貨・銀貨などの貴金属貨幣で成り立っていた貨幣社会において、商人たちには悩みがありました。
それは、貨幣の保管や持ち運びに、非常に苦労するということでした。
『ドン・キホーテ』の著者として有名なミゲル・デ・セルバンテスも、その著書『やきもちやきのエストレマドゥーラ人』の中で、下記のように記しています。
当時の商人は、取引の際に大量の金貨を運搬しなければならず物騒でしたし、保管をするにしても、管理をまかせた使用人に持ち逃げされる心配に常に悩まされていました。
これを、セルバンテスは「金貨を持てば持つほど心労が募る」と表現したわけです。
当時のイギリスでは、「ゴールド・スミス」と呼ばれる職業がありました。
「ゴールド・スミス」とは金細工職人たちのことです。
ゴールド・スミスは職業柄、大量の「金」を貯蔵する必要があったため、巨大な金庫を持っていました。
そこでゴールド・スミスたちは、商人から金貨を預かってその金庫に保管するビジネスをはじめました。
金貨を預かった商人には「預かり証(金匠手形)」を渡し、金匠手形を持ち込んだ商人にはその金匠手形の額面の金貨を渡すというサービスです。
このサービスはとても重宝されました。
そして、ゴールド・スミスの金貨預かりサービスが広まると、商人の間では下記のような決済方法が用いられるようになりました。
金貨の運搬、保管に心労を募らせていた商人が、日常的に発生する取引の都度、わざわざゴールド・スミスに換金に行くわけがありません。
行くのも面倒ですし、なにより、持ち運びも保管も楽チンな金匠手形という紙片で決済ができるので、換金する必要がそもそもありませんでした。
やがてゴールド・スミスは気づきました。
「金貨を預けた商人たちが、一斉に金貨を換金することはあり得ない」と。
そこで商魂たくましいゴールド・スミスは、商人から預かっている金貨を別の商人に貸して金利を得るビジネスをはじめます。
もちろん金貨を貸し出す時も、金貨そのものを渡すのではなく、借用証書を受け取る代わりに貸付金額が記載された金匠手形を借り主に渡すわけです。
借り主にしても、金貨を渡されても心労が募るだけですし、金匠手形さえあれば事足りるんですから。
なんかすでに銀行っぽくなってきましたね。
でもまだ真の銀行には至っていないんです。
そしてさらに、商魂たくましいゴールド・スミスが気づきました。
「今までは商人から預かった金貨の総額を上限に貸付をしていたけど、別に実物の金貨の総額を貸付額の上限にする必要はないのでは?」と。
「金匠手形に額面を書いて借り主に渡せば、借り主はその金匠手形を決済手段として使うことができるし、どうせすべての商人が一斉に金匠手形を持ち込んで換金することなんてあり得ないんだし」と。
三橋貴明さんが言うところの、「金融史上、あるいは人類史上、最大級のイノベーション」が、この時に起こりました。
ついに、銀行の誕生です。
ゴールド・スミスは、借り主から借用証書を受け取る代わりに、紙片に万年筆で数字を書き込んだだけの金匠手形という「お金」を発行するようになったわけです。
商人たちから預かっている金貨の総額に関係なく。
言ってみれば、「無(ゼロ)」から「お金」を生み出すようになったのです。
ここまで説明してきた通り、「お金」とは紙幣や硬貨という「物」それ自体を指しているのではなく、また、貴金属のことでもありません。
では、いったいナニモノなのでしょうか。
まず、「お金」の性質からお伝えします。
現在流通している「お金」は、誰かが銀行から融資を受ける(お金を借りる)と「無」から生まれ、借り主が銀行に返済すると「無」に戻ります。
何を言っているのかわからないでしょうが、確かにそうなのです。
改めて言いますが、今抱いている「お金」に対する認識、先入観を一度捨て去って、事実だけを受け止めてみましょう。
みなさんの抱く銀行の貸付業務は、市中からお金を集めて、それをお金が必要な人に貸し付けている、という感じではないでしょうか。
しかし実際のところ、現在の銀行が行っていることは、前述したゴールド・スミスのそれとまったく同じです。
わかりやすく比較してみましょう。
おわかりいただけたでしょうか。
なんと銀行は、「借り主の通帳に数字を印字する」という方法で、「無」から「お金」を生み出すことができるのです。
ヘリクツでもなければ、銀行による信用創造について歪曲した見方をしているわけでもありません。
現実世界で日々起こっていることなのです。
銀行のホームページや窓口に、「当行は、融資総額が預金総額に達しましたので、しばらく貸付業務ができません」みたいなお知らせが出ているのを見た人はいるでしょうか。
自分で見たことがなくても、ウワサやニュースの報道ででも見聞きしたことがあるでしょうか。
当然ないでしょう。預金総額と融資総額は何の関係もないんですから。
別な側面からも説明できます。
仮に誰かの預金を誰かへの貸付に回しているとしたら、銀行がAさんに融資をしてAさんの口座の残高が増えた場合、例えばBさんの口座の残高が少なくなる、ということになるはずです。
でもそんな話聞いたことないですよね。
まぁ、そういうことです。
「信用創造」とは、銀行が与信行動をすることで「お金」を生み出すことを言います。
「この企業は事業計画もしっかりしていて将来性もあるから、融資してもきっと返済してくれる!」
「この企業は今まで返済が滞ったことがないから信用できる」
といった「信用」を担保に、銀行は融資をします。(現実には、株式や会社の資産を副担保として要求される場合もありますが。)
銀行が借り主を「信用」して(与信行動)、いざ融資を実行する際に行うことはといえば、前述の通り借り主の通帳に数字を印字する(口座の残額を増やす)だけです。
そしてその通帳上の数字は、「お金」として機能しはじめます。
これが「信用創造」です。
英語では「Money Creation」と言いますので、「貨幣創造」と表現してもまったく不都合はありません。
クドいようで恐縮ではありますが、これは「無」の状態から「お金」が創造されているということを意味しています。
もちろん、通帳上の数字の移動だけでの決済が広く行われているとはいえ、銀行もまったくの無一文で操業できるわけではありません。
通帳上の数字の現金化(平たく言えば、預金の引き出し)をする人も当然いるでしょうから、現金も持っておく必要はあるでしょう。
しかし大事なのは、銀行は決して、大勢の人から預かっている預金を元手に貸付をしているわけではない、ということです。
「信用創造によって銀行が「お金」を創造し、それが借り主の口座の残高として反映される」、これが銀行融資の正確な認識です。
少しわかりにくいですが重要な部分なので別の説明をしてみます。
銀行預金は、預金者が銀行にお金を預けた時にも増えますが、一番増えるのは融資(貸し付け)を受けた時(信用創造された時)です。
そして、極論、銀行は預金を集めなくても貸付ができます。
つまり、現実に行われているのは、銀行業務の一般的なイメージである「預金(調達)⇒ 貸付」ではなくて、「貸付⇒ 預金」だということです。
まだ腑に落ちていない人のために、権威を持ち出しての力技を少し。
イングランド銀行の季刊誌『Money creation in the modern economy(現代経済における信用創造)』に、下記の文章を見つけることができます。
「Rather than banks receiving deposits when households save and then lending them out, bank lending creates deposits.(銀行が家計から預けられた預金を貸し付けに回しているというよりはむしろ、銀行が貸し付けることで預金が創造される)」
「Commercial banks create money, in the form of bank deposits, by making new loans.(商業銀行は、新規の貸付を行うことで、銀行預金の形式で貨幣を創造する)」
また、2019年4月の参議院の委員会において、信用創造について西田昌司参議院議員から質問を受けた黒田日銀総裁も、「預金は銀行の与信行動によって増えるのは事実である」と肯定しています。
複式簿記を知っている人であれば疑問に思うかもしれない、銀行が融資を行った場合のバランスシートについて少し触れておきます。
企業Aが銀行から融資を受けた場合の、銀行と企業Aのバランスシートは下図のようになります。
預金は、預金者から払い出しを請求されたら出金しないといけないので、銀行からすれば負債なわけですね。
| 銀行のバランスシート | 企業Aのバランスシート | ||||||
| 資産 | 負債 | 資産 | 負債 | ||||
| 貸出金 | 100万円 | 預金 | 100万円 | 預金 | 100万円 | 借入金 | 100万円 |
そして、企業Aが返済すると下図のようになります。
信用創造によって「無」から生み出された「お金」は、返済によってまた「無」に戻ります。
| 銀行のバランスシート | 企業Aのバランスシート | ||||||
| 資産 | 負債 | 資産 | 負債 | ||||
| 貸出金 | 0万円 | 預金 | 0万円 | 預金 | 0万円 | 借入金 | 0万円 |
「銀行が100万円を貸し付けると銀行の「現金」が減って、返済を受けると「現金」が増える」ではなく、「貸付によって何もないところから100万円が生まれ、返済されると何もなかったことになる」ということです。
現実世界では、発行されている紙幣の総額より何倍もの「お金」が、生まれたり消えたりを繰り返しながら流動しているんです。
前置きが長くなりましたが、ようやく「お金」の正体を解き明かす準備ができました。
まず思い出してほしいのは、「お金」は、貴金属のことでもなければ、紙幣、硬貨といった商業用具でもありませんでした。
次に、銀行が「お金」を創造するプロセスを思い出してみましょう。
誰かが銀行から融資を受けることで、信用創造によって預金という形で「お金」が生まれていました。
次に、人類最古の「お金」であるメソポタミア文明の粘土板を思い出してみましょう。
この粘土板は借用証書のようなものでした。
つまり「お金」とは、下記の4つの要件を満たすもののことなのです。
この4つの要件を満たせば、紙切れであろうが、貴金属であろうが、金匠手形であろうが、木片であろうが、粘土板であろうが、通帳の印字であろうが、何でも「お金」になり得ます。
1つ目の要件にして、1番重要なポイントです。
そして、はじめて聞いた時に1番ピンと来ないワードだと思います。
改めてですが、最古の「お金」であるメソポタミア文明の粘土板。
これには「Aが、Bから、小麦〇〇を借りた」という債権・債務の内容が記録されていました。
銀行が信用創造(貸付)をした際には預金という形式で「お金」が生まれますが、これも、債権・債務の内容(銀行にとっては負債、借り主にとっては資産)が通帳に記録されたものです。
「ちょっと待って!?普段「お金」として使ってる紙幣には数字と偉人の肖像画しか書かれてないけど、どこが債権・債務の記録なの?」と思う人は多いでしょう。
紙幣には、数字と偉人の肖像画の他にも「日本銀行券」と書かれています。
実は、紙幣は日本銀行が振出人の小切手なのです。
とは言え、本来小切手は現金の代わりに使用するものですが、紙幣の場合それ自体がそのまま「現金」なので少しややこしいですね。
でも性質的には小切手そのものです。
ぼくが紙幣という小切手を銀行に提出することで、ぼくの預金残高が小切手(紙幣)の額面分増えます。
銀行は、その小切手(紙幣)を振出人である日銀に提示することで、日銀当座預金残高が増えます。(実際にはさすがにこういったやり取りはしないと思いますが。)
なお、銀行預金は「銀行にとっては負債、預金者にとっては資産」という債権・債務の記録でしたが、この事実は、バランスシートがイメージできていないとうまく理解ができなかったと思います。
そこで、日銀のバランスシートの興味深い特徴を紹介します。
イメージ的に、日銀が紙幣を発行した場合、バランスシートの借方(資産)の「現金」科目の数字が増えるような気がしますが、現実は、貸方(負債)の「現金」科目の数字が増えることになります。
驚くべきことに、日銀(おそらく日銀だけだと思いますが)のバランスシートでは、「現金」は負債になっているのです。
なぜなら、「現金」は日銀が振り出した小切手(未払金)だからです。
もう1つ例を示してみます。
子供たちはどんなことを始めるでしょうか。
色々と想像できると思います。
Aさん一家では、債権(オモチャを買ってもらう)と債務(オモチャを買ってあげる)の関係が名刺に形を変えて流通しています。
Aさんが一般人であれば、世間的にはAさんの名刺それ自体に価値はないでしょう。
しかし、Aさんの家庭内ではまさに「お金」として機能しているわけです。
「お金」として流通するには、多数の人がその「お金」に「価値がある」と感じていなければなりません。
日本銀行券は、日本中のあらゆるお店で物やサービスと交換してもらえるので、日本中の人が「価値がある」と感じています。
前述のAさん一家の例における名刺は、Aさんの家庭内では十分「お金」として機能しますが、Aさんの子供以外には価値を感じてもらえません。
そのため、「お金」ではあるものの、譲渡性は低いということになります。
使えるお店が限定された商品券も、Aさんの名刺同様に譲渡性が低い「お金」の例です。
また、広く流通する「お金」の場合、譲渡性が確保されるために偽造が困難なものである必要もあろうと思います。
簡単に偽造できてしまうと、「本物かわからないから受け取りたくない」ということになって、譲渡性が落ちてしまうからです。
「お金」の単位として、「円」、「ドル」、「ユーロ」などはみなさんご存知だと思いますが、「お金」として成立する上では何でもかまいません。
粘土板が〇枚、名刺が〇枚でも、十分に「お金」の単位としては有効です。
「お金」として機能するには、その「お金」を受けとった人が「きっと損をしないだろう」と思えるような裏付けが必要です。
つまり、「お金」は何かで担保されている必要があるということです。
銀行が信用創造によって預金を生み出すのは、貸付をした際に借り主から借用証書を受け取った時でした。
これは、「この人なら返してくれるだろう」という信用が担保になっています。
預金残高が「お金」であることに異論はないと思いますが、貸付以外でこの預金残高が増えるのはどういったケースかと言うと、日銀の債務(負債)である日本銀行券が提出された時、誰かが振り出した小切手(振出人の債務)が提出された時など、銀行が「誰かの債務」を担保として得た時、ということがわかります。
前述のAさん一家の例において、もしAさんが、10枚の名刺を子供から提示されてもオモチャを買ってあげなかったとしたら、名刺という「お金」は「信用」という担保を失ってただの紙切れになってしまうわけです。(Aさんは親としての信頼も失うことになるでしょうが。)
いかがだったでしょうか。
「お金」の概念を再定義できましたでしょうか。
今まで漠然と、表層的に理解していた(つもりになっていた)「お金」の正体は、譲渡性があって、「信用」や誰かの債務(これも突き詰めれば「信用」ですが)で担保された債権・債務の記録のことだったわけです。
「貸付によって銀行が預金を創造する」とか、「お金=紙幣、硬貨」ではないといった事実は、人によっては一種のパラダイムシフトになるでしょう。
しかしよく考えてみると、一般的に知られている歴史においても、それまで信じられていたことが実は間違っていたといったことはたくさんあります。
MMTの与えるインパクトを表現する際によく引き合いに出されるのは、天動説と地動説です。
今までの主流派経済学が天動説であり、MMTが地動説であるという例えです。
経済学の常識が180度変わるほどのインパクトをMMTは持っているので、言い得て妙だと感じます。
次回は、MMTにおける租税(税金)のとらえ方を説明したいと思います。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
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